いつの頃からか、「就社から就職へ」という表現が使われるようになった。私は、この表現に違和感があったので、自分が書く文章では一度も使ったことがな い。なぜ違和感を持ったのか、自分の中で明確に説明できなかったが、最近、その理由がわかってきた。「職のことをわかっていない学生が『就職』を語れるは ずがない」と無意識に考えていたようである。
まずは会社に入って働いてみないと、職とは何かがわからない。最初は就社が普通である。働きながら徐々に職についての理解が進み、ある程度経験を積 んでから「職に就く」という意識を持つべきである。にもかかわらず、大人たちは、若者に対して「専門性を持て」とか「会社に入るという考え方ではダメだ」 という無責任な発言を繰り返してきた。
多くの日本企業は、ほぼ白紙の状態で若年層を採用する。理系の場合は、一定の専門分野を考慮するが、それも絶対ではない。エ ンジニアとして入社した人が、途中で人事や総務に配置転換になることはしばしばある。それが本人にとって不幸な異動かというと、そうではない場合が多い。
若者が働き始めるとき、こんな仕事がしたいという漠然とした思いがある。夢と言ってもいいだろう。これまでの短い経験から、 この仕事は自分に向いていると考えるのだが、それが本当に向いているのかどうかは、仕事をしてみないとわからない。案外、単なる思い込みということもあ る。
私たちは、ある思い込みを持って生きている。「これがいい」とか「これでなければダメだ」とか、決めてかかっていることが多 い。ある時点で「これしかない」と思っていることでも、時間が経ってから振り返ってみると、大して重要でなかったと思うのは誰しも経験することである。人 生の中の出来事は、死を除けば相対的なものばかりである。
思い込みは、人の可能性を狭めてしまう。挑戦すればできることなのに、自分で枠をはめてしまって、できない状態を継続させる ことになる。その意味からも、働き始める時点で「職」を意識するのは決して得策ではない。少なくとも20歳代は、機会が与えられれば何にでも挑戦してみる のがよい。ただし、ある種の信念は必要である。
関西の大手電機メーカーの子会社に出向し、最後にはその会社に転籍して社長になった人がいる。彼は中卒で採用され、夜間高校 に通いながら働いていた。入社後2年経った頃、上司から配置転換の打診があった。それは、彼にとって魅力的な仕事だったが、「せめて高校は出ておきたい」 という思いがあったので、その配転を断った。上司が理由を尋ねたところ、夜間高校を卒業したいという話をした。上司は、彼の志に感心し、新しい仕事に移っ ても夜間高校に通えるように配慮してくれた。
「それは昔の話だ。環境が大きく変わった現在では通用しない」などと言わないでいただきたい。どんなに環境が変わっても、大 切なことは守らなければならないし、大切なことが守れない企業は、遅かれ早かれ衰退していく。一本しっかりとした芯を持ち、譲れない部分と柔軟に対応する 部分がうまく組み合わされることで人は育っていく。
就社という言葉は、「会社の言いなりになって主体性がない」というマイナスのイメージで使われ始めた。「会社のためなら社会 的規範を犯すこともいとわない」という意味も入っている。だからといって、いきなり「就職だ」と主張するのは飛躍しすぎではないだろうか。私は、次のよう なメッセージこそがふさわしいと考える。
「最初は会社に入って仕事の本質を知り、自分の適性を知りましょう。それには時間がかかります。性急に結果を求めてはいけま せん。与えられた機会は、何はおいても受けましょう。特に20歳代は仕事の基礎をつくる時期です。いろいろなことに挑戦して下さい。ただし、自分なりのこ だわりは持っておいて下さい。こだわりとは、大切にしたいことです。わがままとは違います。
こだわりがわがままにならないようにするには、あなたの回りにいる尊敬できる先輩を見習うことです。5年後にはあんな仕事ができる人材になっていたいと か、管理職になるときにはあの課長のようになりたいとった目標となる人物は、あなたの回りに必ずいるはずです。その人の行動をまねることがわがままを封じ る近道です。
就社から就職へという言葉に惑わされてはいけません。まずは就社です。その上で就職を考えられるようになって下さい。」
人材は日本社会の宝である。潜在的に持っているものを十分に開発しなければ、「宝の持ち腐れ」になってしまう。人口減少局面に入った今こそ、宝を十分に活用できる人材マネジメントが必要である。
投稿者プロフィール

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法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール
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