クロアチアから見たベルリンの壁崩壊(1)

1.旧ユーゴとの出会い

 ベルリンの壁崩壊後の旧ユーゴ地域を語るとき、1991年から約10年にわたって続いた戦争を抜きにすることはできない。91年6月のスロベニアとクロ アチアの分離独立宣言をきっかけに始まった戦争は、ボスニア・ヘルツェゴビナやコソヴォに飛び火した。その結果、1991年の初めに一つの国であったユー ゴスラビアは、現在、7つの独立国に分裂している。


 筆者は、1979年秋に旧ユーゴに政府奨学生として留学した。ザグレブ大学経済研究所に通って、労働者自主管理の実態研究を行った。専攻は労使関係論で あり、博士論文のテーマは、「ユーゴ労働者自主管理の挑戦と崩壊」だった。軍事問題の専門家でもなければ、政治を語る能力も持ち合わせていない。ただ、 1991年末から92年初めにかけて戦時下のクロアチアに滞在し、空襲警報で防空壕に避難するという経験をした。そのときの印象は強烈であり、一庶民とし て戦争の恐怖を体験したことはその後の筆者自身の世界観に大きな影響を与えている。

 筆者には、7つに分裂したユーゴスラビア全体を論じることはできない。ただ、クロアチアについては、30年を超える変遷を研究してきたし、肌でも感じて きた。毎年2~3カ月間クロアチアに滞在し、研究者として、また生活者として、あの国を見てきた。ベルリンの壁崩壊から20年を経たいま、壁崩壊の前と後 で何が変わったのか、あるいは変わらなかったのかを整理することはできると思う。イタリア半島のちょうど東側に広がるクロアチアで、何が起こったのかを概 観してみよう。

 

2.旧ユーゴスラビアの成立と多様性
旧ユーゴスラビアの成立

 この小論は、クロアチアについて語ることが主たるテーマだが、読者にクロアチアを理解してもらうには、第二次大戦中に誕生したユーゴスラビアについて触れざるをえない。

 旧ユーゴスラビアは、1943年11月に独立を宣言した。当時のユーゴスラビアの地域はナチス・ドイツの占領下にあり、ユーゴ共産党率いるパルチザンが 抵抗運動を繰り広げていた。そのリーダーが、後にユーゴの終身大統領になるチトーである。彼は、多くの民族が入り乱れて住んでいた地域で、民族自決と小作 農からの解放を掲げて、多様な人々の力を結集することに成功した。この抵抗運動はナチス・ドイツを苦しめ、最終的にソ連の力を借りることなく、自力で解放 を果たした。これが旧ユーゴの運営に大きな影響を与えた。

 ナチス・ドイツからの解放と同時に、ソ連は「指導者」としてユーゴに入ってきた。そして、中央集権型の政治経済運営を進めようとした。農業の集団化は、 その中の重要な項目であった。一時、ユーゴ共産党も集団農場の設立を試みたが、農民の抵抗に遭い、ほとんど進まなかった。「小作農からの解放を掲げてドイ ツと闘ってきた。戦争に勝ったのだから自作農になれると思っていたのに、なぜ集団農場なのか?」という強い疑問が農民からあがり、集団化に踏み切ることは できなかった。また、パルチザン闘争を牽引した「民族自決」も、中央集権型の政治運営とは相容れないものであった。

 このようなユーゴ共産党の動きは、スターリンの逆鱗に触れ、1948年6月28日、共産党の国際組織であったコミンフォルムから追放されてしまった。当 時、ユーゴは東ブロックに属すると考えられていたので、西側からの援助も受けられることなく孤立し、経済的に苦しい状態に置かれた。その中で出てきた考え 方が分権型の社会主義体制であり、労働者自主管理であった。「工場を労働者の手に」が象徴的なスローガンとして使われた。

 東側ブロックから離脱を余儀なくされたユーゴは、非同盟運動を始めるなど、東西対立の狭間にあって、絶妙なパワーバランスをとるようになる。西側諸国に とって、ユーゴは東ブロックとの緩衝地帯であり、再び東側に傾かないように、経済的、政治的支援を注ぎ込んだ。

旧ユーゴの多様性

 1950年代以降のユーゴスラビアは、ときには分裂の危機をはらみながら1991年まで何とか統一を保っていた。1963年と74年に大幅な憲法改正が 行われ、そのたびに共和国の独立性が強まっていった。民族間の対立が起こったとき、チトー大統領が出てくると対立は収まった。1980年にチトーがこの世 を去ったことは、ユーゴスラビアの統一に暗雲を投げかけた。チトーは終身大統領だったが、彼の死後、外交の場面で国を代表する大統領は、共和国と自治州 (セルビア共和国の中のヴァイヴォディナとコソヴォ)の代表による1年交替の輪番制になった。最後のユーゴ大統領は、2000年1月から2010年1月ま でクロアチアの大統領を二期務めたメシッチ氏であった。

 ユーゴスラビアが存在した頃、その多様性を表現するのに、1から7の数字が使われていた。1つの国、2つの文字(ラテン文字とキリル文字)、3つの宗教 (カトリック、セルビア正教、イスラム教)、4つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、5つの民族(スロベニア人、クロアチ ア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人)、6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニ ア)、そして7つの国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア)と国境を接する―今となっては懐かしい表現 であるが、一つの国として運営していくことの難しさを象徴していたと言える。

投稿者プロフィール

藤村 博之
法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール