クロアチアから見たベルリンの壁崩壊(3)

3.クロアチアにおける戦争
戦争の被害

 クロアチアの人々は、1991年から95年にかけて闘われた戦争を「独立戦争」と呼んでいる。日本人は、外国のメディアがcivil warという表現を使ったこともあって「ユーゴの内戦」と表現することがあるが、それはクロアチア人の認識と全く異なっている。クロアチア人とあの戦争に ついて話すときは、決してcivil warという表現を使ってはならない。「内戦」と言ったとたんにそっぽを向かれ、それ以上の会話は成り立たなくなるであろう。それくらい、つらく悲しい体 験であった。


 クロアチアには7つのユネスコ世界遺産がある。それらの中で特に有名な二つが、91年の戦争で被害を受けた。中世の城壁都市ドゥブロブニク(文化遺産) と17の湖が連なるプリトヴィッツェ(自然遺産)である。二つとも世界遺産登録が始まった初期の段階(1979年)に世界遺産になっている。

 ドゥブロブニクでは、度重なる砲撃によって城壁内の教会や民家が破壊された。現在では、ユネスコの支援を得て元通りに修復され、戦争の爪痕を見ることは ほとんどできない。わずかに、旧市街城門横の教会の壁に保存されている不発弾が開けた穴や、城門の入口付近に掲げられている被弾箇所を示す旧市街の地図で わかる程度である。

 セルビア人勢力は、クロアチアのアドリア海沿岸を領土にすることをねらっていた。セルビア本国は内陸の国であり、昔から海への出口を求めていた。「セル ビア人の住んでいるところはセルビア人の領土だ」という大セルビア主義を掲げ、周囲の国に勢力範囲を拡大する野望を常に持っていた。ドゥブロブニクは、そ の格好の標的だったのである。

 もう一つの世界遺産プリトヴィッツェは、1995年までセルビア人勢力の支配下にあった。クロアチア政府は、湖が破壊されているのではないかと心配した が、幸いそれはなかった。ただ、野生動物が砲弾の音を恐れて姿を消していたり、魚が乱獲されたりしていた。プリトヴィッツェは国立公園になっており、依頼 すればレンジャーが案内してくれる。そのレンジャーの一人から筆者が直接聞いたところによると、セルビア人勢力はダイナマイトを湖に投げ込んで魚を気絶さ せて一網打尽にする漁をしていたという。成魚だけでなく稚魚も捕っていたので、95年にクロアチアがこの地を奪還したときには魚が姿を消していた。その 後、現在に至るまで魚資源の回復活動が続けられている。

 この独立戦争は、1998年1月15日に最後の占領地東スラヴォニアがクロアチア政府に返還されるまで続いた。この戦争の被害は、クロアチア政府の発表 によると、死者10668人、行方不明者2915人、負傷者37180人、難民(居住地を追われた人)約20万人であった。他方、セルビア人勢力側では、 死者、行方不明者合わせて8039人、難民約45万人にのぼったと言われている。

国連による停戦監視

 1992年1月2日午後6時に国連を調停役とする停戦合意が実行に移され、戦火は一応止まった。セルビア人勢力が支配した地域とクロアチアの間に国連軍 が割って入り、両者ににらみをきかせる役割を担った。クロアチア側は、もともとのクロアチアの領土を話し合いによってセルビア人勢力から取り戻すことを期 待した。他方、セルビア人勢力側は、自分たちの独立が認められることを期待した。調停役として国連から派遣された特使サイルス・ヴァンス(カーター政権の 国務長官)は、ベオグラードとザグレブの間を往き来して、調停案をまとめようとした。

 筆者は、ちょうどその頃ザグレブにいて、ヴァンス特使に関する報道を観ていた。ザグレブでは、セルビア人勢力側のテレビ局が流す番組を観ることができた ので、多くのクロアチアの人々は、クロアチア側の報道と見比べて、どうなるのだろうかと固唾を呑んで見守っていた。ひと言で言えば、両者の報道は正反対の ものだった。セルビア人勢力側のテレビは、彼らにとって有利な方向でヴァンス特使が話をまとめようとしていると報じ、クロアチアのテレビ局は、「クロアチ アの元々の領土を尊重するのでセルビア人勢力の独立はあり得ないとヴァンス特使は言っている」という報道がなされた。結局、ヴァンス特使は目立った成果を 残すことができず、国連による停戦監視が始まり、明石康氏が国連の代表として着任した。

 国連軍は、各国の軍隊の寄せ集めである。クロアチアの停戦監視には、ヨーロッパ各国をはじめとして、ロシア、バングラデシュなど発展途上国からの兵士も 多数任務に就いた。国連軍の中には志気の低い兵士も多数混じっており、さまざまな問題が発生した。象徴的なのは「武器の横流し」である。セルビア人勢力の 支配地域には、定期的に国連のトラック部隊が物資輸送を行っていた。あるとき、国連軍が何もしてくれないことに腹を立てたクロアチア側の住民が道路を封鎖 し、物資輸送が1週間以上途絶えたことがあった。道路封鎖の数日後、セルビア人勢力側からの発砲がピタッと止まり、物資輸送が再開されるまで砲撃がなかっ たというのである。

 途上国から派遣されている兵士にとって、国連軍は出稼ぎの場である。毎月、国連から支給される給料を大切に貯め、半年間の任務を終えて帰るときは、持っ てきた武器を紛失する、すなわち売却するのである。死んでは元も子もないから、戦闘が始まると我先に安全なところに逃げる。住民を守るという意識を持って いる兵士がとても少ないということも言われていた。事実、1995年の「嵐作戦」でクロアチア政府軍が占領地域を一気に奪還したとき、国連軍は地域住民を 先に歩かせて、その後からついていくという光景が随所で見られた。

投稿者プロフィール

藤村 博之
法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール