クロアチアから見たベルリンの壁崩壊(4)

数次にわたる領土回復作戦

 クロアチアは、1992年1月15日にヨーロッパ共同体(EC)によって独立を承認される。日本がクロアチアを承認したのはそれよりも後だが、アメリカ 合衆国よりも早かった。この点をクロアチアの人たちは、とても恩義に感じてくれている。アメリカ追従外交と揶揄されることが多い日本の外交だが、クロアチ アの独立承認については独自の判断をした。この点は日本国民にほとんど知られていない。


 国連による調停では領土を回復できないと判断したクロアチア政府は、自国軍を育成して領土回復作戦を展開した。その最大の軍事作戦は、1995年8月4 日未明から84時間にわたって展開された「嵐作戦」である。この時、筆者は、休暇でアドリア海沿岸に滞在していた。朝のニュースで「嵐作戦が始まりまし た」と報じられたとき、「いったいどうなるんだろう」という不安に襲われたのをよく覚えている。この作戦は、セルビア人勢力の大きな抵抗に遭うことなく、 実質的に3日間で終了した。

 1991年秋にボスニア国境に近い地域をセルビア人勢力が占領したとき、そこに住んでいたクロアチア人たちを追い出した。その空いたスペースに、ボスニ アやセルビア本国の貧しいセルビア人たちが移住してきていた。この嵐作戦によって、移り住んだ人たちも含めた約20万人のセルビア人が難民となって、ボス ニアのセルビア人支配地域やセルビア本国に流れていった。まさに一般民衆の悲劇である。政府の求めに応じて移住してきたら、次には追い出されてしまったの である。為政者たちが見ているのは単なる「人数」であるが、それぞれの人には家族があり、日々の生活がある。それがすべて破壊されてしまうのだから、戦争 をしていいはずがない。

 嵐作戦の詳細は割愛するが、この作戦にNATOが深く関わっていたことは付け加えておきたい。当時、旧ユーゴの戦火はボスニア・ヘルツェゴビナにも飛び 火し、ボスニアのセルビア人による虐殺が国際社会の非難を浴びていた。米国オハイオ州のデイトンで結ばれた合意が守られることなく、セルビア人が戦闘を続 けている状態を打破したかったクリントン政権とNATOは、クロアチアの嵐作戦を支援することによって勢力地図の転換を図った。この思惑は見事に的中し、 その後のボスニア・ヘルツェゴビナにおける戦闘終結に結びついていった。わずか84時間で嵐作戦が成功裏に終わったのは、セルビア人勢力側の志気が落ちて いたとかクロアチア政府軍の力がついてきていたという点だけではなく、NATOの支援が大きかったことも忘れてはならない。

戦争が残したもの

 戦争はさまざまな悲劇を生む。セルビア人とクロアチア人の夫婦が仲違いをして離婚したという例は、枚挙にいとまがない。難民として家を失い、家族を失った人たちもたくさん発生した。戦闘で負傷し、身体の一部を失った人たちもたくさんいる。

 クロアチア人にとって、独立は悲願だった。フラーニョ・トゥージュマンという大統領を選び、彼が「クロアチア民族の国」を強調しすぎたために、クロアチア国内のセルビア人たちの不安を増大させ、セルビア本国に付け入る隙を与えてしまった。

 歴史に「もしも」は禁句だが、もしトゥージュマン氏があそこまでクロアチア民族主義をあおらなかったら、戦争は避けられたかもしれない。また、もし トゥージュマン氏が、当時のセルビア共和国大統領ミロシェヴィッチ氏とお金で解決する方法を模索していたならば、あの悲劇は起こらなかったかもしれない。 今となっては何を言っても詮無きことではあるが、民族が大きな転換期を迎えるとき、賢明な指導者に恵まれるか否かがいかに重要であるかを旧ユーゴの戦争は まざまざと見せつけている。

 

4.戦後のクロアチア ― まとめにかえて

 1995年8月の嵐作戦で失った領土の大半を回復したクロアチアは、平和を取り戻した。元々の領土がすべてクロアチアに戻ってくるのは1998年1月だが、95年の秋以降、クロアチアの人々は「もう戦争は終わった」と感じることができた。

 一時は優勢を誇ったクロアチア民主同盟も、1999年のトゥージュマン大統領の死、2000年の総選挙での敗北によって政権党から野党に転落した。新た にできた中道左派の連立政権は、WTOへの加盟やEUへの加盟申請など、積極的に国際社会との関係を深めようとした。この路線はその後の政権交代でも継承 され、2012年にEUに加盟できる見通しになった。

 クロアチアは観光立国をめざしている。前述したようにユネスコの世界遺産が7つあり、アドリア海沿岸には、夏になると多数の観光客が訪れる。世界的な団 体である国際観光協会が2年連続して「世界で最もたずねたい国」に選んだほどである。日本からの観光客もここ数年、急激に増えてきた。

 いまクロアチアを訪れる人たちは、約15年前に悲惨な戦争があったことを感じずに楽しむことができる。まさに平和のおかげである。ベルリンの壁崩壊から 20年、クロアチアは戦争を経験し、たくさんの命が失われた。これを無駄にしたくないという気持ちがあるためか、クロアチア国内の治安はとても良い。社会 主義から資本主義に体制転換した国々では、大都市の治安が悪化し、「住みにくくなった」という声をよく聞くが、クロアチアにはそれがない。これからもクロ アチアが安全な国であり続けることが、戦争で散っていった人々への最大の供養になると言えよう。

投稿者プロフィール

藤村 博之
法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール