31年前のショック

 昨日、外国語に関する古いブログが一瞬、New!として復活してしまいました。私の手違いでした。申し訳ありません

 

 今日は、クロアチア語を勉強し始めた頃の出来事をお話しします。

 

 私が、旧ユーゴスラビアに留学したのは1979年10月のことでした。31年前になります。ユーゴ政府の奨学生としてザグレブ大学経済研究所に派遣されました

 

 当時は、いまのように格安航空券が簡単に手に入る時代ではなく、ソ連のアエロフロートで比較的安い航空券をみつけて、モスクワ、ベオグラードを経て、ザグレブに入りました。

 

 ザグレブに来てすぐに、外国人向けのクロアチア語学習コースに入りました。ザグレブ大学文学部が開設しているコースで、毎日3時間半、2学期間続きました。

 

 

 当時のユーゴスラビアは、非同盟運動の中心的存在であり、レバノン、ヨルダン、パレスチナといった国・地域から多くの留学生が来ていました。なぜ、中東の人たちが多かったのか―そこにはカトリック文化圏という、国境を越えた歴史がありました

 

 ザグレブ大学の医学部を卒業すると、西ヨーロッパ諸国で医学部卒業資格が認められるのに、ユーゴの首都にあったベオグラード大学医学部の卒業では、医学部卒として認められませんでした。ザグレブ大学は、カトリック文化圏の大学として、西ヨーロッパ諸国から特別扱いを受けていたのです。それゆえ、中東の留学生たちは、学費の安いザグレブ大学で医学を勉強して卒業資格を取得し、西ヨーロッパ諸国に移住して医師の国家試験を受けるという行動をとっていました。

 

 これはショックでした。同じ国なのに、首都の大学と地方の大学で扱いが違うとは驚きでした。日本で言うと、東京大学卒では認められないけれど京都大学卒なら認められるといったところです。資本主義とか社会主義といった政治体制を超えた歴史の重みを感じました

 

 

 旧ユーゴにとって、ザグレブは日本の京都にあたる町でした。そのため、京都市とザグレブ市は1981年に姉妹都市盟約を結びました。来年は30周年記念の年になります。

 

 31年前のショックはもう一つあります。それは、語学コースの休憩時間に起こりました。

 同じクラスにイタリア人女性とスペイン人女性がいて、二人が盛んに話をしているのです。明らかに英語ではありません。そこで聞いてみました。

「君たち、何語で話しているの?」

イタリア人は「私はイタリア語」、スペイン人は「私はスペイン語」と答えました。

「それで通じるの?」

 「だいたい大丈夫!」

 

 

 これはショックでした。私が日本語を話し、外国の人が自国の言葉を話してだいたい通じるなんてことはあり得ません。「ああ、これがヨーロッパか」と感じました

 

 それ以来、ヨーロッパの人間が「私は5カ国語を話します」と言っても驚かなくなりました。私だって、広島弁、名古屋弁、関西弁、江戸弁、それに英語とクロアチア語をそれなりに話せますから、ヨーロッパで言えば「6カ国語を話せます」みたいなものです。この出来事以来、外国語に対するコンプレックスをあまり感じなくなりました

 

 現地に行かないとわからないことはたくさんあります。最近、海外に行きたがらない日本の若者が増えていると言われていますが、もったいないですね。現地、現物、現実の「三現主義」を大事にしてほしいと思います。

投稿者プロフィール

藤村 博之
法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール