言葉は抽象思考の道具

 約30年前、私はドイツに留学していました。フライブルグという南西ドイツの大学町で、とても落ち着いた雰囲気の場所でした。

 

 フライブルグは、15年くらい前から都市の交通政策のお手本として、日本人の注目を集めています。町の中心部に自動車をできるだけ入れないようにして、路面電車で移動してもらう仕組みを実践しています

 

 30年前のドイツで問題になっていたことが、いま、日本でも問題になっています。外国人労働者の子供たちの教育です。

 

 当時の西ドイツは、1960年代から70年代初めにかけて大量に受け入れた外国人労働者(特にトルコ人)が滞留し、子供たちが育っていく中で予期しない問題に直面していました。子供たちの抽象思考力が弱いのです。

 

 外国人労働者の子供たちは、地元ドイツの学校に通っています。ドイツ語も話しますし、母国語も話します。その限りにおいてはバイリンガルなのですが、抽象思考が苦手なのです

 

 実際にものがあれば、流ちょうに二カ国語を使いこなします。でも、ひとたび抽象的な話になると、ほとんどついてこれなくなるのです。原因は、使いこなせる言語を習得していなかったことでした。ドイツ語も両親の母国語も中途半端だったのです。

 

 私たちは、言葉を使って考えます。具体的なものがないとき、頼りになるのは言語力です。語彙の豊富さと思考力は正比例します。十分に使いこなせる言語を習得していないと、考えが浅くなったり、複雑な思考ができなくなったりします

 

 西ドイツの外国人労働者の子供たちは、抽象思考が苦手だったためにいい仕事に就くことができず、低い給料に甘んじなければなりませんでした。社会の下位の階層に産まれた子供たちがずっとその階層にとどまるという「貧困の再生産」が起こっていたのです。

 

 日本社会にもたくさんの外国人が働いています。彼らの子供たちが日本で教育を受けているわけですが、日本語も中途半端、母国語も中途半端になってしまうという問題が発生しています。他国が通ってきた道を私たちもたどろうとしています

 

 この問題を解決するには、外国人たちのコミュニティに彼らの母国から教師を招き、土日や休日を使って母国語の補習教育をするか、日本語を習得できるように公立学校に補助教員を置くかのどちらかです。どちらにしても費用がかかります。これを地方自治体まかせにしておいていいはずがありません。日本国全体の問題です。

 

 最近、日本企業の中に、英語を公用語にするところが出てきて話題になっています。いろいろな国の人が一緒に働くのですから、コミュニケーションの手段として英語を使うのはしかたないことだと思います。でも、英語に固執しすぎると思考力が落ちます。その点はどうするんだろうな、と人ごとながら心配になります。

 

 これからの国際競争力は、他社に考え出せないものを世の中に提供できるかどうかにかかっています。言うなれば「思考力の勝負」です。高い思考力を支える高い言語力を持った社員が活躍できる会社でなければ、早晩、その会社は淘汰されていくでしょう。何が本当に大切な能力なのかを見極める力が必要だと思います

投稿者プロフィール

藤村 博之
法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール