雇用保障はどこまで必要か?(下)

 長らくご無沙汰しておりました。少し仕事が立て込んでいて、時間的、精神的な余裕をなくしていました。一つの山を越えたので、(下)を書けるようになりました

 

 雇用保障はどこまで必要か―雇われて働いている人にとって、雇用が安定していることは大切です。明日どうなるかわからないという状態では、仕事に打ち込めませんね。

 

 でも、経済環境は変化します。会社が中国に拠点を移そうというとき、「私はそれに対応できない」と言うと会社は困ってしまいます

 

 1973年のオイルショックとそれに続く不況で、多くの企業は人員削減をしました。しかし、国内に複数の事業所を持っている会社では、従業員に「調子のいい事業所に移らないか。そこに行けば雇用は継続できるぞ」と呼びかけました。これに呼応して異動した人もいましたし、異動できないと言ってその会社を辞めていった人もいました。

 

 新日本製鐵は、生産性を上げるために1980年代終わりから相次いで高炉を閉鎖しました。1989年釜石、1990年堺、1993年広畑(姫路)などです。高炉を閉鎖すると仕事の場が減ってしまいます。新日鐵は、従業員に対して、名古屋や大分といった比較的新しい事業所への配置転換を提案しました

 

 この会社提案にしたがって異動していった方もいますし、地元に両親がいるので転居はできないといって、他社に移っていった人もいました。新日鐵のすごいところは、異動できない人たちの再就職先を会社が責任を持ってみつけたことです。釜石や広畑で新日鐵の労務課長というと「偉い人」というイメージがあります。その人たちが、町工場を一軒一軒まわって、「わが社の社員を何とか引き受けてくれないか」と頼んでまわりました。

 

 これは、1990年代半ば以降に多用された再就職支援会社とはまったく異なる対応でした。これだけきめ細かな対応をすると、従業員はある種の納得をしてくれます。「これだけ会社がやってくれたのだから、まあいいかな」という感情を持ちます。人を減らさなければならない状況になったとき、会社は誠意を持って対応することが重要です。誠意を持った対応とは、時間と労力をかけることだと思います。そうすれば、辞めていった従業員も、最後までその会社のファンでいてくれます

 

 1970年代後半から80年代にかけて、日本国内で行われた事業所間配転が、2010年代になったいま、国境を越えようとしています。言葉の壁や生活習慣の違い、文化の違いは、どうしようもなく存在します。それを乗り越えていくのは至難の業です。でも、私たちは、それを求められるのです。

 

 対応できなければ、別の会社で雇用の場をみつけるしかありません。「こういう時代だからしかたない」とあきらめることもできますが、企業の雇用責任はどうなるのかという疑問が残ります。

 

 雇用の場は守れないけれど、雇用を守る方法はあります。「攻めの雇用保障」です

 

 攻めの雇用保障とは、他社に移っても十分に通用する能力を従業員に身につけさせておけば、広い意味での雇用保障になるという考え方です。約15年前から私が主張し始め、最近、ときどき使われるようになりました

 

 結論です。「企業は雇用保障の責任がある。しかし、それは、自社の中で雇用の場を確保することだけを意味するのではない。他社に移っても通用するような能力開発を行うのも雇用保障の一部である。」

 

 従業員の自助努力も必要ですね。売れる能力を維持することは、私たち個人の責任だと思います

投稿者プロフィール

藤村 博之
法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール