周回遅れのアメリカを追いかける愚を犯す日本

周回遅れ


 現在、大阪で世界陸上選手権大会が行われている。世界中から選りすぐりの選手たちが集まり、自らの極限に挑戦している。優勝するに越したことはないが、 この場に立てただけでも感慨深いものを選手たちは抱いているはずである。自らの力を出し切ろうと緊張感の中で戦っている選手たちは美しい。スポーツを観て 私たちが感動するのは、自分の中にあるチャレンジ精神を刺激されるからである。


 トラック競技で最も長い距離を走るのが1万メートルである。400メートルトラックを25周する。何周か走る間に先頭集団が形成され、やがて周回遅れの 選手の背中が見えてくる。同じ平面で行われているので、観客から観るとどちらがリードしているのかわからなくなるが、しかし、先頭集団は間違いなく先を 走っているのである。


 日本とアメリカの人事制度をめぐる議論を見ていると、私はトラック競技を思い出す。日本が一周先を走っているにもかかわらず、アメリカの背中が見えたと き、「自分たちは遅れている」と勘違いしてしまった。そこで、アメリカが「これはダメだ」と判断して捨て去ってきたものを日本は後生大事に拾い集め、使お うとしている。こんなことをしていては、スピードが出るはずがない。ボヤボヤしているとアメリカに抜かれてしまうことになりかねない。日本企業は、もっと 自分たちが築いてきたものに自信を持つべきである。


リエンジニアリング


 今から振りかえると、1980年代は「日本の時代」だった。1973年と79年の二度のオイルショックで、先進諸国はスタグフレーション(インフレと失 業の同時進行)に悩まされた。その中で、一人気を吐いていたのが日本である。エネルギー価格の大幅上昇という外的ショックを各企業の努力によって吸収し、 安定した成長軌道を維持することができた。経済の低迷にあえいでいたアメリカやヨーロッパ諸国は、日本経済成功の秘密を探るため、コンサルタントや研究者 を大挙して日本に送り込んだ。その成果が、1990年頃から「企業活性化ツール」としてアメリカで出始めた。まず話題になったのが、リエンジニアリングで ある。


 それまでのアメリカ企業では、各人の職掌範囲を明確に定め、それそれが担当職務を忠実に果たすことを求めていた。これに基づいて決められていたのが職務 給である。しかし、この方法だと、一人の担当者が休むとその先の仕事がすべて滞ってしまう。これでは、顧客に対して質の高いサービスを提供できない。そこ で、提案されたのが、リエンジニアリングである。共通性の高い仕事を複数の人間が担当できるように職務を再編成し、専門的に特化すべき仕事とそうでない仕 事を分けた。その結果、その職場にいるメンバーがお互いの仕事の進捗状況を知るようになり、一人が休んだとしても顧客の要請に迅速に応えられるようになっ た。


 これは、まさに日本企業が普通に採ってきた仕事の進め方である。自分が直接担当していなくても、朝礼やミーティングで仲間の仕事の状況を把握している。 だから、担当者が不在の時でも、顧客からの電話に対して、失礼のない範囲での対応が可能になっていた。アメリカのコンサルタントは、日本企業の仕事の進め 方に学んだが、自分たちの商品として売り出すとき、決してJapaneseという名前はつけなかった。Japaneseと聞いたとたんにアメリカ人たちが 反発することを恐れたのだろう。Reengineeringという言葉を生み出し、それを普及させていった。


学習する組織


 次にアメリカで話題になったのが「学習する組織」である。人は経験を通して学習するが、組織も構成員の知識や経験を蓄積することによって学習することが できる。学習する仕組みを持っている組織こそが強い組織になれるという内容だった。これも日本企業の組織運営がヒントになっている。


 日本企業には、組織構成員の経験やノウハウをお互いに交換し、みんなでより良い仕事をしていこうという雰囲気があった。先輩社員は後輩たちに惜しげもな く自分のノウハウを公開してきた。他人の失敗や成功から学び、全体として向上していこうという気風がった。この実態をアメリカ人たちはlearning organizationと名付けたのである。ここでもJapaneseという言葉は使われなかった。


リーン・プロダクション・システム


 1990年代後半に注目されたのがリーン・プロダクション・システムである。リーンleanとは、贅肉がなくてきりりと引き締まった状態を指す言葉であ る。日本語に訳しにくいので、そのまま「リーン」とカタカナ表記して使われている。製造工程に仕掛品の在庫(すなわち贅肉)がなく、整然と生産が流れてい く仕組みが解説され、世界中の製造現場に影響を与えた。これは、トヨタ生産方式そのものである。Toyotaという言葉を使わずに、leanと表現したと ころがミソである。
戦略的人事管理


 そして、いま、人事の世界で話題になっているのが「戦略的人事管理」である。人事部門のミッションは、経営戦略の実行に必要な人材を供給することであ る。しかし、有能な人材の供給は限られているので、企業内の現有人材を的確に把握し、必要に応じて内部育成することで将来の人材需要に応えていかなければ ならない。そのために、人事部門は経営者と連携して人事戦略を立案し、実行する責務を負っている―戦略的人事管理Strategic Human Resource Managementの教科書は、このように教えている。
 これも日本企業の人事部が普通に行ってきた人事管理である。中長期の視点で人を採用し育成して将来の必要に備える。今すぐ必要ではない人材も内部に抱 え、来るべき需要に応える体制をとってきた。人事担当の取締役がおり、日常的に社長と意見交換をして企業の戦略に関わるというのが日本企業の普通の姿で あった。


是々非々の態度で


 このように見てくると、1990年前後から人事労務の世界で「最先端」と言われてきた議論が、すべて日本企業の実態をベースに作られていることがわか る。日本の実態を良く知らない学者やジャーナリストが「これは新しい」と誤解し、英語などの外国語で書かれたものを日本語に翻訳して、まことしやかに紹介 してきた。周回遅れのアメリカの背中を見て、「自分たちは遅れている」と日本企業が錯覚してしまった原因は、自国のことに無知な知識人たちの責任である。


 もちろん、日本のやり方に問題がないとは言わない。改めるべきことは多い。しかし、日本企業が培ってきたものをすべて否定し、新しいものに入れ替える必 要はまったくない。是々非々の態度で臨むべきである。少なくとも、周回遅れの国を見て、自分たちの良い点を捨て去るような愚を犯してはならない。

投稿者プロフィール

藤村 博之
法政大学大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授
法政大学大学院 職業能力開発研究所 代表
NPO法人 人材育成ネットワーク推進機構 理事長
詳細:藤村博之のプロフィール